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娼婦列伝 ギリシア編 2

目次

  1. アブロトロン
  2. アルケアナッサ
  3. グナタイナとグナタイニオン
  4. グリュケラ
  5. プリュネ
  6. プランゴンとバッキス
  7. ヘルピュルス
  8. マニア

アブロトロン

 アブロトロンは前6世紀頃にアテナイにいたトラキア生まれの遊女で、サラミスの海戦で名を馳せたアテナイの政治家テミストクレスの母親です。実はテミストクレスの母については異論が多く、ほんとうにアブロトロンがテミストクレスの母親なのかはっきりしていませんが、彼女の墓には「私がギリシア人のために偉大なテミストクレスを生んだ」と書いてあったそうです。彼女以外にもテミストクレスの母はカリア市民の娘エウテルペだとか、アカルナニア市民の娘が母親だとか、いろいろと言われていたみたいです。逆に言うと、テミストクレスの父ネオクレスは母親が誰だか分からなくなるほどにおさかんな人だったと言うことなんでしょう。たぶん、正妻はエウテルペで妾としてアブロトロンをかこっていたのだと思います。
 前5世紀には両親共にアテナイ市民でなければその子は市民になれないと言う法律が作られましたが、前6世紀は父親さえアテナイ市民であればその子は市民になれるので、母親が市民の娘だろうと、遊女だろうと問題はありませんでした。それでも、テミストクレスはどうも「庶子(ノトス:νοθοs)」と呼ばれていたみたいで、普通の市民に対していくぶん引け目を感じる立場にあったみたいです。そのせいかもしれませんが、テミストクレスはやたらと名声を追い求め、目的の為には手段を選ばすと行ったところがあり、名声を手にしてからは我が儘が目立つようになって、最後はペルシアへ亡命を余儀なくされています。やっぱり、幼い頃にずいぶんいじめられて、回りを見返してやろうとがんばったんでしょうね。母の職業を意識してなのか、ある日の朝、四人の娼婦を馬のように繋いだ四頭だての馬車で、市街の目抜き通りを走りまわったことがあったそうです。
 アブロトロンについては彼女の墓に書かれてある言葉以外はほとんどなにも分かっていませんが、墓の文句からしてテミストクレスがサラミスの海戦に勝利した後で、テミストクレスがペルシアへ亡命する前に亡くなったと考えられます。息子の絶頂期に亡くなったのでしょうから、当人としては幸せだったのかもしれません。


参考文献
・ネポス著 山下太郎/植村健二訳 英雄伝 国文社 1995年 「テミストクレス」
・プルタルコス著 村川堅太郎編 プルタルコス英雄伝 上 筑摩書房 1987年 馬場恵二訳「テミストクレス」
・アテナイオス著 柳沢重剛訳 食卓の賢人たち4−5 京都大学学術出版会 2002,2004年

アルケアナッサ


ジャン・デルヴィル 「プラトンの学園」 1897年
www.artmagick.com より

 アルケアナッサは前四世紀頃にアテナイにいた遊女です。彼女はコロポン生まれで、プラトンの愛人だったようです。プラトンと言えば、ブラトニック・ラブの語源として知られ、その愛の形は肉体的な交わりより精神的な交わりを重視するとしたイメージで知られています。ところが、プラトン自身は意外に肉欲派の人でけっこう多くの人にラブレターを送って、体に触らせてくれだの、キスをしてくれだの、欲望丸出しで人に迫る癖があったみたいです。ですが、ラブレターの相手は殆ど男性で女性あてのラブレターはアルケアナッサへ宛てたものしか残っていません。この手紙の中でプラトンは「おまえは僕の物だ」とか、「盛りを過ぎたその肌に激しい恋心がこもってる」とか、けっこう露骨な言葉を投げつけています。女性に年の事をここまで露骨に言うなんて、プラトンってけっこう失礼な奴だったのかもしれませんね。この手紙はプラトンの元を去ったアルケアナッサに出した手紙のようでして、そのせいもあって何とか彼女の心をつなぎ止めようと、露骨な言葉を投げつけたのかもしれません。
 アルケアナッサについてはプラトンの手紙に出てくる以上の事は何も分かっていませんが、同性愛者のプラトンの心を掴むような女性ですから、けっこう男っぽい人だったのかもしれません。


参考文献
・ディオゲネス・ラエルティオス著 加来彰俊訳 ギリシア哲学者列伝上巻 岩波書店 1984年

グナタイナとグナタイニオン

 グナタイナとグナタイニオンは前四世紀のアテナイにいた祖母と孫の遊女です。祖母のグナタイナは劇作家や役者を相手にする事の多い遊女で、得意なのは苦みの利いたジョークだったそうです。たぶん、彼女の話を作品に生かそうと劇関係者がよってきたのでしょう。
 特に彼女のところに通い詰めた客として喜劇作家のディピロスが知られています。「このコップは冷たいな」とディピロスが言うと「あら、そのコップには貴方のギャグが入ってるのよ」なんて感じで二人は会話を楽しんでいたみたいです。
 グナタイナの子がどういう人だったかは伝わっていませんが、孫のグナタイニオンも遊女をしていた事が知られています。グナタイナはかなり稼いだらしく、老後も悠々自適で孫も遊女とはいえあくせく稼ぐ必要がなく、けっこう自由気ままに暮らしていたみたいです。孫のグナタイニオンも祖母と同じく劇関係者との関係が深く、彼女は悲劇役者のアンドロニコスと内縁の夫婦みたいな関係になったみたいですけど、お金を積まれたり、気にいれば誰とでも関係を持っていたみたいです。ある時、グナタイニオンは銅職人に金を積まれて関係を持ち、アンドロニコスに知られると平然と「あんな汚い男を抱く気になれなかったけど、お金を積まれたからあの男の一番小さなところを抱いただけよ」なんて言ってのけてます。アンドロニコスはグナタイニオンにかなり振り回されていたみたいで、ときおり祖母のグナタイナに愚痴を言いにいき、祖母は孫に注意したりしていたみたいですが、総じて三人の関係は円満な形で収まっていたようです。
 この家族がこの後どのようになったかは分かりませんが、劇関係者のよき遊び相手としてそれ相応に稼いでいったんじゃないかと思います。


参考文献
・アテナイオス著 柳沢重剛訳 食卓の賢人たち5 京都大学学術出版会 2004年

アブロトロン

 アブロトロンは前6世紀頃にアテナイにいたトラキア生まれの遊女で、サラミスの海戦で名を馳せたアテナイの政治家テミストクレスの母親です。実はテミストクレスの母については異論が多く、ほんとうにアブロトロンがテミストクレスの母親なのかはっきりしていませんが、彼女の墓には「私がギリシア人のために偉大なテミストクレスを生んだ」と書いてあったそうです。彼女以外にもテミストクレスの母はカリア市民の娘エウテルペだとか、アカルナニア市民の娘が母親だとか、いろいろと言われていたみたいです。逆に言うと、テミストクレスの父ネオクレスは母親が誰だか分からなくなるほどにおさかんな人だったと言うことなんでしょう。たぶん、正妻はエウテルペで妾としてアブロトロンをかこっていたのだと思います。
 前5世紀には両親共にアテナイ市民でなければその子は市民になれないと言う法律が作られましたが、前6世紀は父親さえアテナイ市民であればその子は市民になれるので、母親が市民の娘だろうと、遊女だろうと問題はありませんでした。それでも、テミストクレスはどうも「庶子(ノトス:νοθοs)」と呼ばれていたみたいで、普通の市民に対していくぶん引け目を感じる立場にあったみたいです。そのせいかもしれませんが、テミストクレスはやたらと名声を追い求め、目的の為には手段を選ばすと行ったところがあり、名声を手にしてからは我が儘が目立つようになって、最後はペルシアへ亡命を余儀なくされています。やっぱり、幼い頃にずいぶんいじめられて、回りを見返してやろうとがんばったんでしょうね。母の職業を意識してなのか、ある日の朝、四人の娼婦を馬のように繋いだ四頭だての馬車で、市街の目抜き通りを走りまわったことがあったそうです。
 アブロトロンについては彼女の墓に書かれてある言葉以外はほとんどなにも分かっていませんが、墓の文句からしてテミストクレスがサラミスの海戦に勝利した後で、テミストクレスがペルシアへ亡命する前に亡くなったと考えられます。息子の絶頂期に亡くなったのでしょうから、当人としては幸せだったのかもしれません。


参考文献
・ネポス著 山下太郎/植村健二訳 英雄伝 国文社 1995年 「テミストクレス」
・プルタルコス著 村川堅太郎編 プルタルコス英雄伝 上 筑摩書房 1987年 馬場恵二訳「テミストクレス」
・アテナイオス著 柳沢重剛訳 食卓の賢人たち4−5 京都大学学術出版会 2002,2004年

グリュケラ

 グリュケラは前四世紀にアテナイにいた遊女です。グリュケラは哲学者や喜劇作家など、アテナイの有名人を相手にしていた遊女でした。哲学者のストア派の哲学者スティルポンから「遊女は若者を堕落させる」と非難された時、「貴方も私も同じことで非難されてるのね。貴方は役に立たないばかり教えると非難され、私は男女の交わりを教えて非難されてるけど、どっちと付き合っても破滅して酷い目に遭うんだから同じってことね」とスティルポンをやりこめたりしてます。
 グリュケラはアレクサンドロス大王の幼友達で財務長官をしていたハルパロスの愛人になります。当時、タソス(現在のトルコ、キュプロス島のすぐ上のあたり)にいたパルサロスはアレクサンドロス大王が東方遙か遠くにいて監視の目が届かないことをいいことに軍資金を横領してやりたい放題やっていました。グリュケラがハルパロスの招きに応じてタソスに来ると、彼女を女王のように扱えと布告を出したり、巨大な銅像を造らせたりと、グリュケラの機嫌取りをしますが、ハルパロスはやりすぎました。横領がアレクサンドロスに知られてしまい、慌てたハルパロスはグリュケラを連れてアテナイへ亡命しようと、アテナイの有力者にお金をばらまいて、アレクサンドロスに対して反乱を起こすように訴えます。ハルパロスはお金だけじゃなくて、お金で雇った艦隊と軍隊をつれてきて、お金だけじゃなくて軍事力もちらつかせたみたいです。ですが、アレクサンドロス大王がアテナイに対して反乱に協力するなとの命令が届き、アテナイはハルパロスの受け入れを拒否します。
 ハルパロスはクレタへ落ち延びましたが、ここで部下に殺害されます。グリュケラがどうなったかは分かりません。アテナイにはもう帰れなかったでしょうし、クレタにも留まれなかったでしょう。彼女はハルパロスの愛人として有名すぎました。ハルパロスと運命を共にしたか、正体を隠してどこかへ逃げたか。たぶん、うまく逃げ延びてどこかで娼婦を続けたのでしょう。


参考文献
・アテナイオス著 柳沢重剛訳 食卓の賢人たち5 京都大学学術出版会 2004年
・フラウィオス・アッリアノス著 大牟田章訳 アレクサンドロス東征記およびインド誌 東海大学出版会 1996年

プランゴンとバッキス

 プランゴンとバッキスは前7世紀頃にイオニア地方にいた遊女です。プランゴンはミレトス出身で、バッキスはサモス出身者でしたが、イオニア地方の同じところで遊女をしていたようです。当時、二人ともイオニアで一、二を争うほどの遊女として名が知られていましたが、バッキスの方はある青年の内縁の妻でもありました。この青年はけっこう情熱的な人で好きになったら止まらないといった感じで、困ったことバッキスと恋仲なくせにプランゴンまで好きになってしまい、プランゴンに結婚を迫ったのです。プランゴンの方は別に青年に気があったわけじゃなかったのすが、自分と一、二を争うほどのバッキスをものにした青年に興味を抱いたみたいで、青年に一つの難題をふっかけます。バッキスが大事にしている首飾りを自分に贈ってくれたら、青年と結婚すると言ったのです。青年はバッキスに首飾りを譲ってくれないと死んでしまうと、バッキスに頼み込むバッキスはあっさりと首飾りを青年に譲りました。この顛末を聞いたプランゴスは青年よりも、バッキスに非常に大きな好感を抱いて首飾りをバッキスに返して青年と結婚して三人で暮らすようになります。当時、この事件はずいぶん話題となったみたいで三人の和気藹々とした生活ぶりはイオニア地方の人々の間で好感を持って迎えられ、パロスの著名な詩人カルキロコスはプランゴスを賛美する詩を書き残しています。ですけど、なぜか青年の名は伝わっていません。たぶん、金持ちでも貴族でもない平民の青年だったからでしょう。
 三人がその後どうなったかは分かりませんが、けっこう楽しく最後まで暮らしたんじゃないかなって思います。というか、そう思いたいです。


参考文献
・アテナイオス著 柳沢重剛訳 食卓の賢人たち5 京都大学学術出版会 2004年

プリュネ

ジャン=レオン・ジェローム作「裁判所のプリュネ」1861年
http://www.praeraffaeliten.de/ より

 プリュネは前四世紀にアテナイで有名だった遊女です。出身はボイオティア地方のテスピアイで、本名はムネサレテといいます。彼女は顔は飛び抜けて美人と言うほどではなかったのですが、プロポーションが非常によく、ギリシアでも高名な画家や彫刻家のモデルを盛んに引き受けて自慢のプロポーションを宣伝すると同時に人前ではわざと厚着をして体型を隠して人々の想像をかき立てて自分の利点を巧みにアピールしました。著名な哲学者で自制心が強いと評判のクセノクラテスを誘惑して自分の魅力をアピールしようともしましたが、これは失敗に終わりました。クセノクラテスは相当評判の人だったらしく、ライスも彼の誘惑にチャレンジしていますが、「局部の苦痛に耐えかねた」と言わせただけで、誘惑には失敗したみたいです。
 プリュネは色々な方法で自分をアピールしていきましたが、ちょっとやりすぎました。多くの男達を破滅へ追い込んだと告発されてしまい死刑にもなりかねない情勢に陥ってしまったのです。そこへ、好色家で知られた辣腕弁護士のヒュペレイデスが弁護を買ってでました。お代は当然彼女の体です。ですが、辣腕弁護士が付いてもプリュネの裁判ははかばかしくなく、ついにヒュペレイデスは最後の手に訴えます。裁判席でいきなりプリュネを裸にして裁判人達に涙ながらに彼女の無罪を訴えたのです。この突飛な弁護に裁判人達はあっけにとられ、無罪を言い渡してしまいます。裁判が終わってもヒュペイレイデスはプリュネとの関係を求めました。プリュネとしても専属弁護士が付いた方が今後ともいろいろとやりやすいだろうと考えてか、ヒュペレイデスとの関係を続けたのでした。
 プリュネは遊女としてかなり成功し、莫大な富を蓄えましたが、彼女は自尊心も結構強く、テスピアイでは著名な彫刻家のプラクシテレスを計略に掛けて金箔を被せた自分の像を造らせてテスピアイの中心に設置させ、テーバイではアレクサンドロス大王が破壊した城壁を再建して「アレクサンドロスの破壊せし城壁を遊女プリュネが再建せり」と城壁に銘文を書き付けたりと、とにかく莫大な出費を重ねて自分の功績を誇ったのでした。
 彼女の晩年がどうだったかはわかりません。たぶんたくさんため込んだ資産を元に悠々自適な老後を過ごしたことでしょう。


参考文献
・プルタルコス著 柳沢重剛訳 愛をめぐる対話 岩波書店 1986年
・ディオゲネス・ラエルティオス著 加来彰俊訳 ギリシア哲学者列伝上巻 岩波書店 1984年
・パウサニアス著 飯尾都人訳 ギリシャ記+ギリシャ記附巻 龍溪書舎 1991年
・アテナイオス著 柳沢重剛訳 食卓の賢人たち5 京都大学学術出版会 2004年

ヘルピュルス

 ヘルピュルスは前四世紀に哲学者のアリストテレスの愛人だった遊女です。彼女がいつ生まれて、どこでなにをしていたかは、遊女をしていたと言うくらいしか分かりません。アリストテレスが前322年に63歳で死んだ時に彼女が生んだニコマコスが成人してないようなので、たぶんアリストテレスが五十くらいの時に彼女を愛人にしたのでしょう。ですが、アリストテレスは両刀遣いで気の多い人みたいで、去勢された奴隷のヘルミアに出したラブレターが残っていますし、遺書にはヘルピュルスの他に、二人の女性に遺産を分けるように指示しています。アリストテレスには二人の子供がいる事が知られていますが、娘のピュティアスは誰が生んだ子か分かっていません。二人ともアリストテレスが老年に入ってからの子供ですから、若い頃にどれだけたくさんの私生児を作ったかは全く分かりません。
 只、アリストテレスの晩年に彼の身近にいた女性の内で最も重要な女性がヘルピュルスであったのは間違いないようです。なぜなら、アリストテレスはヘルピュルスに最も多くの遺産を分け与え、彼女が望むのならアリストテレスの父祖伝来の生家を与えるように指示しています。
 彼女がアリストテレスの死後どうなったかは分かっていません。たぶん、アリストテレスの弟子に守られながら息子のニコマコスの成長を見守って生涯を過ごしたのでしょう。


参考文献
・ディオゲネス・ラエルティオス著 加来彰俊訳 ギリシア哲学者列伝中巻 岩波書店 1989年
・アテナイオス著 柳沢重剛訳 食卓の賢人たち5 京都大学学術出版会 2004年

マニア

 マニアは前4世紀頃にアテナイで有名だった遊女です。マニアはアテナイ市民の娘として生まれました。自由意志で遊女になったみたいです。マニアの本当の名はメリッサというのですが、ある男から「メリッタが綺麗なのなんのって気が狂う(マニア)ほどだ。」と言われて気をよくしてマニアと名乗るようになったのです。マニアは背こそ低かったのですが、ぱっと見凄い美人で皮肉に満ちた機知に富む会話が得意でした。例えば、ある客から「山で一番足が早い動物は何か?」と聞かれて「脱走兵よ」と返したり、一晩で二人のオリンピア選手を順番に相手をして一人が怒り出した時には、平然と「二人のオリンピア選手を相手にするっとどういう事か知りたかったのよ。」と答えてます。
 マニアはいつだか分かりませんが、マケドニア王デメトリオスの愛人の一人になります。だけど、デメトリオスの愛人一番はラミアがしっかりと押さえていて一番にはなれなかったみたいです。それで、ラミアに嫉妬してたみたいです。デメトリオスの前でラミアが笛を演奏していた時にデメトリオスがマニアに「どう思う?」と聞くと、「お婆さんだと思います」と答えるし、ラミアがデメトリオスにお菓子をプレゼントして、デメトリオスが喜んでマニアに自慢すると「王様と一緒になれるって聞けば私の母だってもっとたくさん送るでしょうね」なんて皮肉をぶつけてます。
 デメトリオス没落後、マニアがどうなったかは分かっていません。たぶん、「王様じゃなくなった貴方なんかに用はありません」、とかいってデメトリオスを捨てちゃったんじゃないでしょうかね。


参考文献
・プルタルコス著 河野与一訳 プルターク英雄伝11巻 岩波書店 1956年 「デーメートリオス」
・アテナイオス著 柳沢重剛訳 食卓の賢人たち5 京都大学学術出版会 2004年

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