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娼婦列伝 ギリシア編

目次

  1. (ミレトスの)アスパシア
  2. (フォカイアの)アスパシア
  3. タイス
  4. テオドラ
  5. ネアイラ
  6. パンカステ
  7. ライス
  8. ラミア
  9. レオンティオン
  10. ロドピス

(ミレトスの)アスパシア

アスパシアの胸像 前5世紀
ヴァティカン美術館所蔵
「古代ギリシア人名辞典 原書房 1994年」15頁より

 アスパシアはイオニアのミレトス出身のヘタイラ、俗に言うと遊女で、前5世紀にアテナイで随一の実力を持つ政治家として知られたペリクレスの妾でした。でも、只綺麗なだけで男に囲われている妾ではありません。遊女屋を営む自立した女性経営者で、政治に通じ、哲学も解するバツグンの頭脳を持つ才女でした。有名な哲学者のソクラテスは演説のしかたをアスパシアに習い、ペリクレスが行った演説の中で最も有名で優れているとされるペロポネソス戦争の追悼演説はアスパシアが作ったものだと言われています。ソクラテスはアスパシアの教えをど忘れした時、アスパシアから鞭で打たれそうになったことがあるそうです。けっこうきつい性格だったのかもしれません。アスパシアの並外れた美貌と頭脳に、ペリクレスはすっかり惚れ込み、妻と離婚し、アスパシアと結婚しました。ペリクレスはとても生真面目で厳格な人として知られ、法を破るなどもってのほかと言う人だったのですが、アスパシアが濆神罪に問われると、民衆に泣いてお願いして無罪にして貰い、「両親共にアテナイ人でなければアテナイの市民権を得られない。」とする自分で提案して成立させた法律をアスパシアとの間に産まれた子供に市民権を与えたいが一心で市民に泣いて頼んで、この子に市民権を与えてしまったりと、何度となく法を曲げてしまいました。ペリクレスが人前で涙を流すなど、この時以外はないみたいです。泣きたくなるほどにアスパシアを愛していたのでしょう。ま、だいたいこの手の堅物ほど、一度愛してしまうととことん溺れてしまうものですから。
 そのせいか、アテナイ人はペリクレスの主導した戦争の原因を何でもアスパシアのせいにしていました。ミレトスと戦争していたサモスを攻撃したのはアスパシアの母国を救うためとか、スパルタと戦争を始めるきっかけになったメガラ攻撃はアスパシアの店の遊女をメガラ人が誘拐したからだとか、色々と噂をしていました。
 ペリクレスが死んだ後、アスパシアは何度か再婚したようです。最初の再婚相手は羊売りのリュシクレスでした。相手は選り取りみどりだったのに、次の相手に権力者を選ばなかったと言うことは、少しは静かな暮らしをしてみたくなったのかもしれません。やっぱり、アテナイ一の実力者の妻というのはとても疲れることだったのでしょう。それでも、ソクラテスなんかはちょくちょく弟子を引き連れ、アスパシアから教えを請おうと訪れていたようです。ですけど、スケベのソクラテスのことですから、他に目的があったのかもしれません。リュシクレスの次に誰と結婚したのかは分かりません。
 前406年、不利に傾いたペロポネソス戦争の戦局を挽回すべくアテナイは百五十隻以上に登る艦隊を八名の将軍に託して送り出しました。その将軍の一人がペリクレスとアスパシアの間に生まれ、ペリクレスが涙ながらに市民権を与えるように訴えた小ペリクレスです。この決戦はアテナイの大勝利に終わり、小ペリクレスも勝者として凱旋したのですが、一つの問題が持ち上がります。海戦が終わった後、小ペリクレスと5人の将軍達は敵艦隊を追撃し、沈没した船の船員を救うために五十隻近くの艦艇と二人の将軍を戦場に残したのですが、タイミング良く嵐が吹き荒れ、二人の将軍は味方の救出に失敗しました。二人の将軍は、このままでは味方殺しの罪に問われると、慌ててアテナイに帰り、味方の救出に失敗したのは小ペリクレスと5人の将軍達が味方を救出しようとせずに敵艦隊を追撃したからだと民衆に訴えたのでした。何も知らずに、凱旋してきた小ペリクレスはいきなり捕らえられ裁判にかけられました。小ペリクレスを救おうと弁護を買って出たソクラテスの弁明も効をそうせず、小ペリクレスは無実の罪で処刑されてしまいました。最愛の息子を、それも無実の罪で失ったアスパシアはさぞかし悲しんだことでしょう。それ以後のアスパシアの消息は伝わっていません。

参考文献
・クセノポン著 根元英世訳 ギリシャ史1 京都大学学術出版会 1998年
・プルタルコス著 村川堅太郎編 プルタルコス英雄伝 上 筑摩書房 1987年 馬場恵二訳「ペリクレス」
・ピエール・ブリュレ著 青柳正規監訳 都市国家アテネ 創元社 1997年

(フォカイアの)アスパシア

 前五世紀、アテナイのアスパシアとは別に対岸のペルシア帝国にも有名なアスパシアがいました。彼女は娼婦ではありませんが、人生の大半をペルシア王の妾として過ごしたのです。彼女はフォカイア一の美女として有名で、その美貌に目を付けたペルシアの総督が彼女を貢ぎ物としてペルシア王の息子キュロスへ送る事にしたのです。ちなみに、こちらのアスパシアの本当の名はミルトといいまして、アテナイのアスパシアにあやかってキュロスがアスパシアと改名させたのです。アスパシアは元々自由人の娘で奴隷として連れてこられたのが悲しくてキュロスの前に引き出されても目に涙を溜めてうつむき、キュロスがアスパシアを品定めしようと、彼女の胸に触ったとたんに大声を出して逃げ出してしまいました。練達の女性ばかり相手にしてきたキュロスはこの初々しさにとても感動し、アスパシアを深く愛するようになり、アスパシア以外の女性に手を出さなくなったそうです。更に、こちらのアスパシアも才色兼備で、キュロスはアスパシアに政治的な相談をよく持ちかけるようになります。ここまで愛されているのに心動かされ、アスパシアもキュロスを愛するようになりました。ある日、キュロスは高価な品を手に入れ、喜んでアスパシアに送ったのでしたが、アスパシアは高価な品は自分にふさわしくない、キュロスの母にこそふさわしいと、その品を母に送るようにキュロスに進言したそうです。この事件はいやが上にもアスパシアの名声を高める結果になったようです。
 キュロスが兄と王位を巡る争いに敗れて死ぬとアスパシアは勝利したキュロスの兄アルタクセルクセルの手に落ちました。アルタクセルクセル王はアスパシアの名声や美貌を耳にしており、何としても彼女を手に入れたいと、勝利した後、必至になって捜していたのだそうです。アスパシアを捕らえた者が彼女を縛って連れてくると、アルタクセルクセル王は激怒し、その者を投獄してアスパシアに高価な装飾品と服を送りました。それでも彼女はアルタクセルクセル王になびくことが無く、キュロスを思い続けていましたが、アルタクセルクセル王は諦めることなくアスパシアにアプローチを続けました。ある日、王はペルシア帝国一の美少年と歌われた妾の少年を一人失い、失意のどん底に叩き落とされました。アスパシアは落ち込んだ王に深く同情し、王を慰め、それ以来二人の関係は一気に深まったのでした。
 アルタクセルクセル王が老年に入り、後継者を息子のダレイオスと宣言したとき、ダレイオスはアスパシアが欲しいと父に要求しました。王はアスパシアは自分を選ぶと思い、アスパシアに決めさせると息子に答えたのでした。王の予想に反し、アスパシアはダレイオスを選びました。なぜなのでしょう。この頃、アスパシアは50歳近くで女性としての魅力は既に下り坂に入っています。キュロスはアスパシアを政治的な助言者として扱い、恐らくアルタクセルクセルも同様にアスパシアを政治的な助言者として扱っていました。長年に渡る政治との関わりの中でアスパシアはやり手婆として知られ、ダレイオスは宮廷の裏事情に通じたやり手婆アスパシアを必要としたのでしょう。アスパシアも老い先長くないアルタクセルクセルより、これから伸びていくかもしれないダレイオスの方に賭けたのかもしれません。しかし、王はアスパシアを息子に与えたとたんに取り上げ、アルテミス女神の祭司に任命してアスパシアを修道院に閉じこめてしまいます。ダレイオスは激怒し、父を殺害しようとしますが、失敗して処刑されてしまいます。アスパシアは残りの人生をアルテミス女神の祭司として終えたようです。
 最初は一途で初々しい才色兼備の美女でしたが、老年に入り、最初の頃の一途な気持ちは薄れ何事も政治的に見るやり手婆になってしまったようです。

参考文献
・プルタルコス著 村川堅太郎編 プルタルコス英雄伝 上 筑摩書房 1987年 馬場恵二訳「ペリクレス」
・アイリアノス著 松平千秋/中務哲朗訳 ギリシア奇談集 岩波書店 1989年 12巻1「アスパシアのこと」
・プルタルコス著 河野与一訳 プルターク英雄伝12巻 岩波書店 1956年 「アルタクセルクセース」

タイス
左の絵はカラッチ・ロドヴィコ作「ベルセポリスに放火するアレクサンドロスとタイス」 1592年
ペンと茶色のインクによるデッサン
ワシントンD.C ナショナルギャラリー所蔵
http://www.nga.gov/より

 タイスは前四世紀にギリシアのアッティカ地方出身の名うての舞姫として知られていました。タイスはマケドニア軍のギリシア侵攻の際に、彼女の名声と美貌に惹かれたプトレマイオスに乞われて愛人になったようです。当時、プトレマイオスはアレクサンドロスの部下で、アレクサンドロスの死後、エジプト王になる人物です。
 タイスはアレクサンドロスの東征にも同行しました。アレクサンドロスはガウガメラの戦いでペルシア軍をうち破り、ペルシア帝国の首都ペルセポリスへ入場すると、ここで大宴会を催します。この時、舞姫として名高いタイスも呼ばれたのでした。タイスは巧みな話術でアレクサンドロスを喜ばせ、最後に大演説を打ちました。
 「アテナイを焼いたペルシア王の宮殿でめちゃくちゃに騒いで、宮殿を焼いてしまいましょう。」、と。
 タイスの大演説に悪のりしたアレクサンドロスと彼の親衛隊のヘタイロイ達は手に手に松明を持ち、町に繰り出し、宮殿を焼き払ってしまったのです。アレクサンドロスはギリシアの仇を討っただけだとうそぶきましたが、内心かなり後悔していたようです。それでも、アレクサンドロスは焼き討ちをタイスのせいにしたりはしなかったのです。そんなことを言ったらみっともなかったからでしょう。
 危険な東征に参加して、アレクサンドロスに向かって物怖じせずに大演説を打ち、大都市一つ灰にしてしまうとは、タイスはかなり度胸の据わった人物だったようです。
 アレクサンドロスの死後、タイスはプトレマイオスと結婚し、レオンティスコスとラゴスの二人の息子と、エイレーンの一人の娘を生みました。エイレーンは後にキュプロス王と結婚しています。

参考文献
・プルタルコス著 村川堅太郎編 プルタルコス英雄伝 中 筑摩書房 1987年 井上一訳「アレクサンドロス」
・フラウィオス・アッリアノス著 大牟田章訳 アレクサンドロス東征記およびインド誌 東海大学出版会 1996年
・Athenaeus著 C.B.Gulick訳 LOEB CLASSCAL LIBRARY No.327:The Deipnosophists6 HARVARD 1937年

テオドラ

 テオドラは前5世紀頃のアテナイの遊女です。テオドラは娼家に属するタイプの娼婦ではなく、一人で金持ちのパトロンを何人も抱えるタイプの娼婦だったようです。彼女の美しさは評判で、幾度と無く高名の画家達からモデルを頼まれていたそうです。そして、アテナイ一の美青年と謳われ、政治家としても評判の高かったアルキビアデスの愛人でもありました。ちなみに、アルキビアデスは金持ちの妻を持ち、多数の愛人に貢がせ、後にスパルタに亡命した際にはスパルタ王妃を口説き落として孕ませる、ギリシア史上屈指の色事師です。同様にテオドラも気に入れば誰とでも寝る女だと評判の色事師でした。
 クセノフォンの「ソクラテスの思い出」と言う本に彼女の見事な手練手管が描かれています。ソクラテスはアテナイの上流階級に友人や弟子が多く、彼を籠絡できれば彼の友人や弟子などのお金持ちをお客にすることが出来ます。そこで、テオドラはアルキビアデスにソクラテスを紹介してもらいました。ソクラテスは弟子を引き連れテオドラに会いに行き、彼女に会うとまず客引き術についての講義を打ち上げます。そこで、テオドラは巧みにソクラテスの言質を引き出していきます。ソクラテスにしてみればテオドラが素直に自分の言葉に乗ってくるので、気分が良かったのでしょう、勢い余って最後は彼女の客引きを引き受けてしまいます。ここを読むと、子供が母親に向かって自分の知見を得意になって話しているような印象を受けます。恐らく、これが当時の遊女達の交渉術であり、客を喜ばせる会話術だったのでしょう。
 アルキビアデスがシキリア遠征に出発すると、テオドラも彼に従い娘のライスと共にシキリアへ行きます。彼がヘルメス象破壊の罪でアテナイに召還されその途上でスパルタへ亡命してしまうと、テオドラは彼とはぐれてしまい、娘のライスともはぐれてしまいます。後に、ライスはシラクサ近郊の町、ヒュッカラでアテナイ軍に捕って売り飛ばされてしまい、コリントスで遊女として勇名を馳せることになります。これは別のお話にて。
 アルキビアデスがスパルタ、ペルシアと長い亡命生活を過ごし、そして復権してアテナイの将軍としてイオニア諸国を飛び回っている間、たぶんテオドラはアテナイでアルキビアデスの帰りを待っていたのでしょう。当然、お金持ち相手のお仕事をしながら。前404年にアテナイがスパルタに降伏してペロポネソス戦争が終わるとアルキビアデスは戦犯としてスパルタからはもとより、母国のアテナイからも、ペルシア帝国からも追われる身になります。そこで、テオドラはイオニアのフリュギアに潜伏していたアルキビアデスの元に行きます。ここでしばらく二人きりの生活を楽しんでいましたが、ついには見つかってしまい、ペルシア軍に隠れ家を包囲され、アルキビアデスは短剣一つでペルシア軍に立ち向かいましたが、矢の雨を浴びて絶命します。テオドラはアルキビアデスの死体を引き取ると、手持ちのお金を叩いてアルキビアデスを葬ったのでした。その後の彼女の足跡はなにも伝わっていません。

参考文献
・プルタルコス著 村川堅太郎編 プルタルコス英雄伝 上 筑摩書房 1987年 安藤弘訳「アルキビアデス」
・クセノフォーン著 佐々木理訳 ソークラテースの思い出 岩波書房 1953年
・プルタルコス著 河野与一訳 プルターク英雄伝7巻 岩波書店 1955年 「ニーキアース」

ネアイラ

 ネアイラは前四世紀頃にアテナイで詐欺罪により告発された元遊女です。
 ネアイラは幼い頃に娼館を営んでいた女将ニカレテに買い取られ、遊女として訓練を受けたのでした。当時、奴隷の娼婦より自由人の娼婦の方が高い値を要求できたので、ニカレテは店の子を全て自分の娘だと言って商売をしていました。ニカレテは更に商売を拡大すべく、娼館のめっかコリントスに移ります。ここでネアイラにはティマリノリダスとエウクラテスという馴染み客がつきます。この二人の馴染みはネアイラを非常に気に入り共同でネアイラを買い取ることにしました。ネアイラは30ムナで買い取られ、二人の妾となります。
 しばらくすると二人の主人は結婚することになりネアイラが邪魔になりました。二人はネアイラに20ムナ払えば自由身分にしてやると持ちかけます。ネアイラは昔の愛人や友人からお金を集めてなんとか20ムナを支払い自由身分になります。そして、最もたくさんお金を援助してくれたアテナイ人のフリュオンの妾になり、アテナイへ行きます。フリュオンにとりネアイラは自慢の種で、よくわざと人前で彼女とキスしたり、抱き合ったりしていたそうです。ところがある日、ピュティア競技会の優勝者カブリアスの祝賀宴会の席でカブリアスと彼の奴隷達が酒に酔わせて無理矢理ネアイラを犯す事件が起きます。フリュオンは憤り、それ以来ネアイラに暴力を振るうようになり、かなりアブノーマルなセックスをも要求するようになりました。ネアイラはこの仕打ちに耐えられなくなり、多額の金銭と二人の女奴隷を持ち出してメガラへと逃げ出したのです。
 メガラへ逃げたネアイラはここで二年ほど娼館を営んでいましたが、商売は上手くいかずに行き詰まり、この間に三人の息子と一人の娘を産み、生活は苦しくなる一方でした。この苦しみから救ってくれたのがアテナイ人のステファノスです。ステファノスは貧乏でしたが、フリュオンからネアイラを守ると誓い、彼女を妻にし、彼女の子供達も自分の子として育てることにして、彼はネアイラをアテナイに連れて帰ります。ここでステファノスとネアイラは新しい商売を思いつきます。アテナイの金持ちの若者を相手にした美人局です。ネアイラが若者を誘惑し、ステファノスが乗り込み、アテナイ市民の妻と姦通したと脅して金を巻き上げるのです。当時、人妻との不倫、姦通罪は重罪ですから若者達は簡単に脅しに屈したのでした。
 ネアイラの娘のファノは成人すると、アテナイ市民の娘としてフラストルというアテナイ市民に嫁ぎましたが、ネアイラがアテナイ市民ではなく、元奴隷であることがばれてしまいファノは妊娠中にも関わらず離婚されてしまいます。怒った父親のステファノスはフラストルを訴えましたが、逆にフラストルから結婚詐欺で訴えられてしまいます。結局二人は示談で矛を収めます。後にフラストルが親族との不和から苦境に陥り病気になると、ネアイラとファノがフラストルを看病し、彼を支援しました。フラストルは感激し、離婚後にファノが産んだ男の子を自分の子として引き取ります。子供を取り上げることが恩返しというのも少し変に思うかもしれませんが、当時にしてみればアテナイ市民の子として育てられればその子はアテナイ市民として将来が保証されます。しかしもし、ファノの手元に残せば元奴隷の娘が産んだ子と言うことになり、奴隷に落とされる危険があるのです。
 ファノは次にテオゲネスと結婚します。テオゲネスはアルコン・バシレウスという今で言うところの大臣です。簡単に言うと玉の輿に乗ったのです。アルコン・バシレウスの任務はアテナイの神事を司ることで、彼の妻たるファノも度々神事に携わりました。しかし、またしてもネアイラの過去がばれてしまったのです。テオゲネスは神事を汚したと訴えられましたが、彼は妻が元奴隷の娘とは知らなかったと主張して無罪を勝ち取り、ファノと離婚してしまいます。彼もお偉いさんの例に漏れず自分の地位を守るためには家族をも犠牲にするタイプの人だったのでしょう。ネアイラと夫のステファノスは結婚詐欺で訴えられてしまい、アテナイの法廷でネアイラの過去が全て暴かれてしまいました。この裁判の結果は伝わっていません。もし負けたのなら、ネアイラは再び奴隷に落とされてしまいます。勝ったとしても、アテナイに留まれたかどうかは疑わしいです。訴訟の相手にはアテナイ史上屈指の弁論家と言われたデモステネスが背後に控えていましたから、勝訴できたとは考えづらいのです。恐らく敗訴して、ネアイラもファノも奴隷に落とされてしまったのでしょう。ですが、ネアイラは苦労に苦労を重ねた海千山千の元娼婦ですから、上手くかわして逃げ延びたかもしれません。というより、そう思いたいです。

参考文献
・エヴァ・C・クルーズ著 中務哲郎/久保忠利/下田立行訳 ファロスの王国1 岩波書店 1989年
・桜井万里子著 古代ギリシアの女たち 中央公論社 1992年

パンカステ
左の絵はGiovanni Battista Tiepolo作「アベレスの画廊にいるアレクサンドロス大王とパンカステ」 1740年 油彩画
http://www.getty.edu/ より

 パンカステは前四世紀にアレクサンドロスの妾だったラリッサ出身の奴隷です。アレクサンドロスの童貞を奪ったのもこの女性だそうです。
 アレクサンドロスは側近や友人にパンカステの美貌をよく自慢していました。ある日、彼女の姿を永久に残そうと思い立ち、お抱え画家のアペレスに彼女の裸婦像を描くように命じたのです。アペレスはアレクサンドロスのお気に入りで、アレクサンドロスの肖像画を描くことを許された唯一の画家です。アペレスは命令通りパンカステの裸婦像を描きましたが、描いているうちにパンカステが気に入り、最後はどうしようもなく彼女が好きになってしまったのです。アペレスはアレクサンドロスのお抱え画家になってからも毎日絵の鍛錬を続け、多くの高名な画家と絵画論を戦わせたりする絵画一筋の堅物だったようです。やっぱりこの手の堅物さんは一度恋に落ちてしまうと、とことん思い詰めてしまうようです。そして、どうしようもなくなったアペレスはアレクサンドロスに相談したところ、アレクサンドロスはあっさりとパンカステをアペレスに与えてしまったのです。パンカステはいかに高名で王の寵愛を受けているとはいえ一介の画家の妾になるのを嫌がったようですが、アレクサンドロスは彼女の言葉に耳を貸すことはありませんでした。もしかすると、アレクサンドロスはもっといい女性を見つけてパンカステをやっかい払いしたかっただけかもしれません。アペレスの申し入れは渡りに船と言うところだったのでしょう。
 この後、アペレスはパンカステをモデルにして代表作「ウェヌス・アナディオメネ」を描きました。残念ながらこの絵は現代に伝わっていません。
 アレクサンドロスの死後、アペレスはエジプト王プトレマイオスやマケドニア王アンティゴノスのの宮殿などを巡り、彼らの希望する絵を描いていたようです。この巡業にもパンカステが同行したのでしょう。
 アペレスはエーゲ海のコス島で二つ目のウェヌス像を描こうとした時、この絵を完成させることなく亡くなりました。おそらく、モデルはパンカステだったのでしょう。

参考文献
・アイリアノス著 松平千秋/中務哲朗訳 ギリシア奇談集 岩波書店 1989年
・プリニウス著 中野定雄/中野里美/中野美代訳 プリニウスの博物誌3 雄山閣 1986年 

ライス
左の絵はヘンリー・シドン・モウブレイ作「ライス」 19世紀 油彩画
http://www.artmagick.com/より

 ライスは前5世紀にギリシアでも屈指の遊女として名を馳せたコリントスの娼館に属した奴隷娼婦です。彼女はアテナイの遊女テオドラの娘で、恐らく父親はアテナイの政治家アルキビアデスです。ライスは幼い頃に母と共にアルキビアデスのシキリア遠征についていきましたが、途中ではぐれてしまい、シラクサ近郊の町ヒュッカラでアテナイ軍に捕まり奴隷として売り飛ばされてしまいました。
 最初にライスを買ったのはメガラ人で、そこから彼女はコリントス人に売り払われ、コリントスで遊女を営むことになったのです。若い頃のライスは野性味に溢れ、主人にも度々逆らっていたようです。ライスに最初に目を付けたのは高名な画家アペッレスで、彼はライスを友人達に紹介し、数年のうちにライスを最高の遊女にしてみせると公言したのでした。その通り、ライスはトップクラスの遊女として成長し、当時高名な哲学者として知られていたソクラテスの高弟で快楽主義者のお金持ちアリスティボス、犬儒派の創始者で極貧のディオゲネス、弁論家として権力を握りつつあったデモステネスが彼女の得意客になりました。特に、アリスティボスはライスにご執心で、毎年二ヶ月ほど二人きりでアイギナへ旅行に出かけていました。一方、ディオゲネスは客としてではなく、ヒモとしてライスとつきあっていたようです。そのせいでアリスティボスは知り合いから「君がライスに貢いだ金を、ライスはディオゲネスに貢いでいるよ」と、からかわれたそうです。
 奴隷とはいえ、売り上げがよく、アテナイの著名人との付き合いの多いライスを娼館の主人も束縛したりせず、自由にやらせていたようです。成人してからは幾分おとなしくなったようですが、気性の荒さは相変わらずで、その気性から「斧」とあだ名されていました。例えば、ギリシア悲劇の巨人エウリュピデスを見かけたライスは「永久に苦しまなければならないほどの悪徳なんてありはしないのよ」などと言って彼を論断してからかい、ちょくちょく客に法外な代金を請求し、プラトンの高弟で自制的な人物として知られたクセノクララテスを誘惑したりしたそうです。クセノクララテスはライスと並び表された遊女プリュネの誘惑にまったく動じなかった程の人物なのですが、ライスの奔放な魅力には抗しえず「局部の苦痛に耐えかねた」などと言ったそうです。
 ある時、ライスはヒッポストラトスとかパウサニアスとか呼ばれたテッサリア人に夢中になり、彼とテッサリアへと駆け落ちしてしまいます。しかし、彼女は他の女性から大きな嫉妬を受けるほどに美しく聡明にすぎました。彼女は彼女を妬んだ女達にアフロディテ神殿の中で打ち倒され、アフロディテ神象の台座にもたれかかるようにうずくまり、死んでしまいました。もしかすると、美の女神アフロディテにも嫉妬され、女神にも叩かれたのかもしれませんね。ライスの死を惜しんだコリントス市民はライスを市民としてコリントスに壮麗なお墓を建てました。テッサリアの人々もライスの死を惜しみ、コリントスほどではありませんが立派なお墓を建てたのでした。

参考文献
・ディオゲネス・ラエルティオス著 加来彰俊訳 ギリシア哲学者列伝上巻 岩波書店 1984年
・アイリアノス著 松平千秋/中務哲朗訳 ギリシア奇談集 岩波書店 1989年
・アテナイオス著 柳沢重剛訳 食卓の賢人たち 岩波書店 1992年
・パウサニアス著 飯尾都人訳 ギリシャ記+ギリシャ記附巻 龍溪書舎 1991年
・プルタルコス著 村川堅太郎編 プルタルコス英雄伝 上 筑摩書房 1987年 安藤弘訳「アルキビアデス」
・プルタルコス著 河野与一訳 プルターク英雄伝7巻 岩波書店 1955年 「ニーキアース」
・Athenaeus著 C.B.Gulick訳 LOEB CLASSCAL LIBRARY No.327:The Deipnosophists6 HARVARD 1937年

ラミア

 ラミアは笛吹きで、アテナイ市民クレアノロスの娘です。若い頃、ラミアがどこで何をしていたのかはわかっていません。四十近くの頃、笛吹き奴隷としてエジプト王プトレマイオスの元にいたのですが、前306年にプトレマイオスがキュプロス沖海戦でデメトリオスに敗北すると、プトレマイオス王はラミアを乗せた船も含めて配下の船の大半を見捨てて逃げ出しました。この時、ラミアは戦利品としてデメトリオスの元へ引き出されたのです。デメトリオスは当時三十歳で多くの妾を抱え、女の扱いにもなれていましたが、ラミアは美しさの盛りは過ぎたとはいえ、長年培った手練手管を駆使し、見事デメトリオスのハートを奪ったのです。後にマケドニア王になったデメトリオスはラミアを喜ばせるために、当時彼の支配下にあったアテナイに命じてラミアに高級石鹸を買うための金を用立てるように命じています。更には、ラミアの宴会のためにも金を用立てるようにも命じました。これに対してアテナイ市民は怒るどころかデメトリオスに媚び、金を用立てただけでなく、ラミアを美の女神アフロディテと讃え、ラミアの社を造ったのでした。さすがにこれにはデメトリオスも呆れたのか、「今のアテナイ人は偉大な精神を持っていないようだな」と言ったそうです。それでも、デメトリオス支配下にあったギリシアの都市国家テーバイもアテナイに習いラミアの社を造りました。たぶん、他の都市国家もこれに習ったことでしょう。ほんとうに、独立独歩の気風の強かった往時のギリシアとは思えない変わり様です。
 この頃のラミアとデメトリオスの関係をよく表す逸話が残っています。ある宴会でデメトリオスはラミアに沢山の香水をプレゼントしましたが、ラミアはプレゼントを拒否して軽蔑の眼差しをデメトリオスに注ぎました。そこで、デメトリオスはいきなり自慰を行い、手一杯の体液を出すと、ラミアに差し出したのです。ラミアは大笑いしながら「なんて恥知らずな」とデメトリオスをたしなめたところ、デメトリオスは恥ずかしがる様子もなく、「これは王の体液だ」と返したそうです。二人の仲は、お互いに気兼ねする間柄でもなく、奴隷と主人という風でもなく、お友達といった感じだったのでしょう。
 前285年にデメトリオスはセレウコスに敗れ、セレウコスの捕虜となってしまいました。セレウコスはデメトリオスを殺すより、捕虜として生かしておく方が有利と考え、彼を生かし続けました。デメトリオスはこの状態に悲嘆し、酒浸りになり、3年後に死にました。この時、ラミアがどうなったかはわかっていません。歳は50に手が届くところにきていましたから容姿は衰えたでしょうが、得意の話術でデメトリオスを慰めながら、一緒に余生を過ごしたのでしょう。

参考文献
・プルタルコス著 河野与一訳 プルターク英雄伝11巻 岩波書店 1956年 「デーメートリオス」
・アテナイオス著 柳沢重剛訳 食卓の賢人たち1−2 京都大学学術出版会 1997−1998年
・Athenaeus著 C.B.Gulick訳 LOEB CLASSCAL LIBRARY No.327:The Deipnosophists6 HARVARD 1937年

レオンティオン

 レオンティオンは前3世紀頃のエピクロス学派の哲学者ですが、哲学者になる前は遊女でした。哲学者の間ではエピクロスを籠絡した絶世の美女として知られていたようです。と言っても、エピクロスは浮世話の多い方でして、レオンティオンの他にも遊女のマムマリオン、ヘデイア、エロティオン、ニキディオン、ピュトクレス、人妻のテミスタとの浮世話が流れていたようです。エピクロスがレオンティオンに出した手紙が残っています。
 「私の救い主であり、また主人でもある方よ、私の愛しいレオンティオンよ、あなたのお手紙を拝見したとき、私は何という称賛の声で心を充たされたことでしょうか」。
 ここからすると、エピクロスがレオンティオンに夢中だったのはホントのようですが、どうも彼はナンパクンみたいですから他の女性にも同様の手紙を出していたのかもしれません。なにせ遊女のピュトクレスに宛てた手紙には「私は座りながら、愛らしくて神にも似た君の来訪を待つことにしましょう」などと書かれていたそうですから。そして、エピクロスに言い寄られた遊女の多くはエピクロスの門下に入りました。当時エピクロスはアテナイで完全寄宿制の学園を運営していました。ここでは男女区別なく学び、共同生活をしていました。学園の運営費、エピクロスや学生の生活費などは裕福な支援者により援助されていましたので、すべて無料だったようです。レオンティオンもこの学園に入り、エピクロスや他の門弟と共に寝食を共にしていました。これは学問は男だけのものとする当時のアテナイの風潮に逆らうものでして、そのせいもあってこの学園は当時の人々にはとても奇異に見えたらしく、多くの非難を浴び、その中でも元々評判の高かったレオンティオンに対する風当たりは大きかったようです。
 レオンティオンの著作は何も残っていませんが、幾つかの作品を書いたことが伝わっています。その中でも、アリストテレスの高弟でアリストテレスの学園を継いだテオフラストスに対する反論の著作は評判だったようです。
 レオンティオンはエピクロスの学園入学後にエピクロスの弟子のメトロドロスに身請けして貰い、メトロドロスの妾になり女の子を産みました。この女の子はダナエと名付けられ、後にアンティオコス二世の宮廷で愛人のために命を投げ出したそうです。

参考文献
・ディオゲネス・ラエルティオス著 加来彰俊訳 ギリシア哲学者列伝下巻 岩波書店 1994年
・堀田彰著 エピクロスとストア 清水書院 1989年
・ダイアナ・バウダー編 豊田和二/新井桂子/長谷川岳男/今井正治訳 古代ギリシア人名辞典 原書房 1994年

ロドピス

 ロドピスは前六から七世紀頃にエジプトのナウクラティスで名を馳せた遊女で、ドーリカとも呼ばれていました。ロドピスはトラキア生まれで、最初はサモス人イアドモンの奴隷でした。イアドモンはイソップ物語で有名な奴隷のアイソポスの主人でして、ロドピスはアイソポスの同僚というわけです。もしかしたら、アイソポスからウィトに富んだ会話術を学んだのかもしれません。その後、サモス人クサンテスに売られてナウクラティスにやってきました。
 彼女はたまたまナウクラティスに商売のために訪れていたレスボス人カラクソスに見初められ、大金で身請けされます。このカラクソスはレスボス島の有名な女流詩人サッポーの兄です。サッポーはロドピスに執心して大金を注ぎ込む兄を苦々しい思いで見ていたようです。この思いを詩に託し、兄を諫める詩と、ロドピスを呪う詩を書き残しています。身請けされて自由になったロドピスはカラクソスに従ってレスボスには行こうとせず、エジプトに留まり遊女を続けたのです。カラクソスがたとえ大金持ちだとしても、エジプトに留まって遊女を続けた方がもっと稼げると考えたのでしょう。大した自信です。ロドピスにべた惚れのカラクソスはたとえ身請けした主人とはいえ、彼女に強く言うことができなかったようです。
 それだけの自信を持つだけあり、高名な遊女の多いナウクラティスにおいてもロドピスの名は鳴り響き、エジプトはもとよりギリシアにおいてもトップクラスの遊女として知られ、莫大な富を築き上げたのでした。ロドピスはこの莫大な富を誇示しようと思い、牛の丸焼きを作るための大きな鉄串をたくさん作り、デルポイ神殿に奉納しました。自信も大したものですが、自尊心も大変なものだったようです。
 ある時、一羽の鷲がロドピスの履き物を持ち去りました。鷲は履き物をエジプト王の元に運び、王は鷲が運んできた履き物を不思議に思い、履き物の持ち主を捜したのでした。ほどなく、その履き物がロドピスのものとわかり、王はロドピスに会うと彼女の美しさに惹かれ、彼女を妻にしました。さすがにロドピスも地中海世界一とも言われる大金持ちのエジプト王の求婚は二つ返事で受けたようです。もしかすると、この鷲の逸話はロドピスの策略だったのかもしれません。これだけの自信と自尊心を持つロドピスですから、自分の夫は世界一の金持ちじゃなきゃしょうがないわよ、とか、考えていたことでしょう。結婚後、王はロドピスのためにメンピスの近くにエチオピア産の黒石を使った豪華なピラミッドを建てたのでした。ロドピスはこのピラミッドに葬られたそうですから、最後までエジプト王との結婚生活を通したようです。
 美貌と度胸一つで、奴隷からエジプト王妃にまで上り詰めた、シンデレラとはひと味違うシンデレラストーリーと言うところでしょうか。

参考文献
・アイリアノス著 松平千秋/中務哲朗訳 ギリシア奇談集 岩波書店 1989年
・ヘロドトス著 松平千秋訳 歴史 上巻 岩波書店 1971年
・ストラボン著 飯尾都人訳 ギリシャ・ローマ世界地誌2 龍溪書舎 1994年
・沓掛良彦著 サッフォー詩と生涯 平凡社 1988年
・Athenaeus著 C.B.Gulick訳 LOEB CLASSCAL LIBRARY No.327:The Deipnosophists6 HARVARD 1937年

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